日本で3回だけレスラーになった沖識名

  日本プロレスの名レフェリーであった沖識名は日本でレスラーとしてもリングに上がっていた。現時点で確認できるのは三試合である。

  日本プロレスの初めての興行である「マナスル登山基金募集、日米プロレスリング」は昭和29年2月19日に蔵前国技館で開幕し、3月7日のフライヤー・ジム(横浜市)での最終戦まで全14戦が組まれた。その最終戦の2日後、蔵前国技館で「日米プロレスリング慈善試合」という名前の興行が打たれた。「身体不自由児援護基金募集、シャープ兄弟送別試合」とも呼ばれるこの大会に、なんとレフェリー沖識名がレスラーとして試合を行ったのである。49歳の沖の相手になったのは遠藤幸吉。当時の遠藤はかなりの実力者であったが、その遠藤を沖は足取り固めで破っているのである。


(毎日新聞東京版[縮刷版]、昭和29年3月7日付朝刊第5面、大阪府立中央図書館所蔵)



(毎日新聞東京版[縮刷版]、昭和29年3月10日付朝刊第5面、大阪府立中央図書館所蔵)


  この「足取り固め」がどういう技であるかははっきりとは分からない。が、当時の新聞では頻繁に使われており、「片エビ固め」や「逆エビ固め」や「逆片エビ固め」や「ステップ・オーバー・トーホールド」などを指すものと思われる。


  昭和29年3月9日(火曜日)、東京都台東区/蔵前国技館

□エキシビションマッチ(10分1本勝負)
   沖識名(5分50秒、足取り固め)遠藤幸吉


  シャープ兄弟が日本を去った後、力道山はハンス・シュナーベルとルー・ニューマンを招へいしてパシフィックコーストタッグ王者(太平洋岸タッグ王者)を名乗らせ、8月6日の東京体育館大会から9月29日の山梨県営飯田町グラウンド大会まで、全42戦の「太平洋選手権争奪、プロレスリング大試合」を開催した。この大会でもレフェリーとして参加していた沖識名は、レスラーとして2試合に登場している。

  最初は8月25日の東京体育館大会である。この日は日本テレビで午後7時30分から9時15分まで生中継されている。
沖の参加したメインエベントの6人タッグマッチは、大会を後援している毎日新聞社の名前を冠した「毎日杯争奪戦」として行われ、力道山&遠藤と組んだ沖のチームがオルソンを従えたパシフィックコーストタッグ王者のシュナーベル&ニューマンを破っている。


(毎日新聞東京版[縮刷版]、昭和29年8月26日付朝刊第7面、大阪府立中央図書館所蔵)



  昭和29年8月25日(水曜日)、東京都渋谷区/東京体育館

□6人タッグマッチ「毎日杯争奪戦」(61分3本勝負)、メインレフェリー:ハロルド登喜、サブレフェリー:九州山義雄
   力道山光浩&遠藤幸吉&沖識名(2−1)ハンス・シュナーベル&ルー・ニューマン&ドクター・オルソン
    @シュナーベル(20分18秒、体固め)沖
    A力道山(4分37秒、体固め)シュナーベル
    B力道山(3分55秒、体固め)オルソン
    ※1本目が「20分11秒」、2本目が「6分37秒」、3本目が「3分56秒」と記載されている資料もある。


  さらにその3週間後、場所を名古屋に移して8月25日の6人タッグマッチの再戦が行われたが、この時も沖のチームが2−1で快勝している。


  昭和29年9月14日(火曜日)、愛知県名古屋市/名古屋市金山体育館

□6人タッグマッチ(61分3本勝負)
   力道山光浩&遠藤幸吉&沖識名(2−1)ハンス・シュナーベル&ルー・ニューマン&ドクター・オルソン
    @シュナーベル(12分40秒、足取り固め)遠藤
    A沖(9分54秒、体固め)ニューマン
    B力道山(6分59秒、体固め)オルソン
    ※1本目が「12分52秒」、3本目が「5分49秒」と記載されている資料もある。


  さて、沖識名のレスラーとしての活躍はこれで終わった訳ではなかった。昭和30年4月10日にプロレスデビューした東富士欽壹のホノルルでの第3戦が行われた興行に再び沖はレスラーとしてリングに上がった。この試合を含めて6興行に参加したのがレスラーとしての沖の最後の試合だったのであろうか。その後の記録は見つかっていない。


  1955年(昭和30年)4月24日(日曜日)、米国/ハワイ州ホノルル/会場名不明

1)シングルマッチ
   沖識名(勝ち)アル・マリノ

2)シングルマッチ
   東富士欽壹(勝ち)ロベルト・ピコ
     ※R・ピコはパンチョ・ビラのこと。

3)シングルマッチ
   力道山光浩(時間切れ)ラッキー・シモノビッチ

4)ハンディキャップマッチ(45分勝負)
   ボビー・ブランズ&ドク・ガラガー(勝ち)ザ・ゼブラ・キッド
    ※Z・キッド(ジョージ・ボラス)が時間内にふたりからフォール勝ちを収めることができなかったため、B・ブラン
      ズ組の勝ちとなる。



  1955年(昭和30年)5月1日(日曜日)、米国/ハワイ州ホノルル/会場名不明

1)シングルマッチ
   ドク・ガラガー(勝ち)沖識名

2)シングルマッチ
   トニー・アンジェロ(勝ち)ボビー・ブランズ

3)タッグマッチ
   力道山光浩&東富士欽壹(反則勝ち)ザ・ゼブラ・キッド&ロベルト・ピコ



  1955年(昭和30年)5月15日(日曜日)、米国/ハワイ州ホノルル/会場名不明

1)シングルマッチ
   ティニア・スア(反則勝ち)バケッツ・シャンベル

2)シングルマッチ
   ボビー・ブランズ(勝ち)ドク・ガラガー

3)タッグマッチ
   東富士欽壹&沖識名(勝ち)トニー・アンジェロ&ロベルト・ピコ

4)シングルマッチ
   ジョージ・ボラス(時間切れ)ニック・ロバーツ
    ※G・ボラスはNWA認定ハワイヘビー級王者。



  1955年(昭和30年)5月29日(日曜日)、米国/ハワイ州ホノルル/会場名不明

1)シングルマッチ
   沖識名(反則勝ち)ドク・ガラガー

2)シングルマッチ
   東富士欽壹(勝ち)トニー・アンジェロ

3)タッグマッチ
   ボビー・ブランズ&ニック・ロバーツ(勝ち)ジョージ・ボラス&ロベルト・ピコ



  1955年(昭和30年)6月5日(日曜日)、米国/ハワイ州ホノルル/会場名不明

1)シングルマッチ
   トニー・アンジェロ(勝ち)ニック・ロバーツ

2)タッグマッチ
   ボビー・ブランズ&沖識名(反則勝ち)ドク・ガラガー&ロベルト・ピコ

3)シングルマッチ
   東富士欽壹(勝ち)ジョージ・ボラス
    ※G・ボラスはNWA認定ハワイヘビー級王者。



  1955年(昭和30年)6月12日(日曜日)、米国/ハワイ州ホノルル/会場名不明

1)シングルマッチ
   沖識名(反則勝ち)ドク・ガラガー

2)シングルマッチ
   ボビー・ブランズ(勝ち)トニー・アンジェロ

3)バトルロイヤル(9人参加)
  [参加選手] ニック・ロバーツ、東富士欽壹、ボビー・ブランズ、ドク・ガラガー、ジョージ・ボラス、沖識名
           ロベルト・ピコ、トニー・アンジェロ(1名不明)。
  [決   勝] ニック・ロバーツ(勝ち)ロベルト・ピコ
            ※N・ロバーツが優勝する。

4)シングルマッチ
   ジョージ・ボラス(勝ち)東富士欽壹
    ※G・ボラスはNWA認定ハワイヘビー級王者。



    
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